しっくりくるか、こないかは、自分となにかの関係性の中で、とても、大切な感覚だと思っている。
これって、私だけなのかもしれないけれど、最初の感覚で「しっくりこない」ものは、そのあとも、ずっと、「しっくりこない」ままだ。
最近の例でいくと、仕事の机の上のレイアウト。
今までのモニターが新しいパソコンに対応しなくなって、新しいモニターに変えたら、今までの机の上のレイアウトだとしっくりこない。
でも、今まで使ってたパソコン台ももったいないから使いたいし、配線を変えるのも一苦労だから、できれば、パソコンの位置を変えたりしないで、そのままのレイアウトでいきたい。
「きっと、そのうち慣れるはず」と、机に向かうが、こう、いつまで経ってもしっくりこない。
配線を変えない程度に、何かを移動してみたり、ものをおいてみたり、まったく落ち着かない。そんなわけで、仕事がはかどらない。
それでもなんとかこのままでいけないか、、と、一ヶ月ほど、微調整をして試行錯誤してはみたけれど、どんどん集中できなくなり、ようやく観念して、机上レイアウト全面変更を決行!
なんて、大げさに言っておりますが、今まで使ってたパソコン台をサヨナラして、パソコンをモニタの右側から左側に移動しただけなんですけどね。
すると、実にやっぱりしっくり来てしまったわけなんです。笑
早くやればいいものを、「もったいない」だの、「面倒」だのという気持ちから「いつか、しっくりくるはず」といつまで経っても来ない未来を夢見てしまい、居心地の悪いまま長い間過ごしてしまう。
とにかく「しっくりこない」と感じたら、「いつかしっくりくるかも」という淡い期待は置いておいて、そのときに、その場で、しっくりくるまでやることが、結局のところ、自分のためになるようだ。
それは、すべての自分との関係性において例外はない。
自分と何かの間には、かならず、しっくりくる距離感や感覚がある。
自分の使っている言葉がしっくりこないと感じたとき。
自分の着ている服がしっくりこないと感じたとき。
友達との関係がしっくりこないと感じたとき。
お料理の味がしっくりこないとき。
その感覚を見逃さない。そして、「いつか」ではなく「今」しっくりを探す。妥協しないでしっくりくるまで、しつこく自分のしっくりを探す。
それが私ができる「わたし」とそしてそれ以外のものへの愛そのものなのかもしれない。