人はそれぞれ特有の色眼鏡をかけて世界を見ている。

おんなじものを見ていても、かけている色眼鏡によって人それぞれ違うものを見ている。

だから、それを見て感じることも人それぞれ。

時々、そのことを忘れてしまって、人に自分の見え方前提で話をしてしまって、人の思いや意図を誤解して受け取ったり、人に理解してもらえないことがしばしばある。

誰かと生きるときに、人それぞれ違った色眼鏡をかけて物事を見ていることを意識して、相手がどのように見ているかを確認し、そして、自分がどのように見ているかを相手が伝わる言葉で表現することはとても大切なことだ。

人間がイルカのように超音波やエネルギーでコミュニケーションできるようになれば、そういうことも考えなくて済みそうだけど、神様がわざわざ、「色眼鏡」と「言葉」を与えたのだから、その制限された世界には、きっと、なにか意味があるんだろうと思う。

「言葉」といえば、いつも、思い出す聖句がある。

“初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。”

『新約聖書』「ヨハネによる福音書」(冒頭部分)

この場合、「言(ことば)」は「イエス・キリスト」と言う意味だと一般的に伝えられているけれど、わざわざ、「言(ことば)」と表現したのだから、「イエス・キリスト」と「言葉」は深い関係があるのだろう。

私は「言葉」を介して「神」知るような気がしてならない。だから、わざわざ、神様は「色眼鏡」を人間に与えて、「言葉」を使わせたのではないのだろうかと思う。

私の色眼鏡をかけて話す言葉は、真実ではないかもしれないけど、私はこの色眼鏡を通して表現される「言葉」をこれからも大切にして生きていきたい。

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